2019 / 09 / 25
Bunkamuraと日本のクラシックシーンの30年の歩み~vol.2 渋谷を巡る物語と「文化村」構想の誕生
【Bunkamura30周年記念特別連載】
大人が楽しめる文化施設の創設へ
日本には現在、さまざまな文化施設がある。しかし、クラシック音楽に適したコンサートホールの歴史は、意外にも短い。前川國男設計による神奈川県立音楽堂や東京文化会館は第二次世界大戦後の建設だし、首都圏では、戦前からある日比谷公会堂でもよくコンサートが行われていた。そんな時代に変化が来るのは1980年代に入ってからである。コンサートホールの建設ラッシュとも言える時代の、その前を振り返ってみたい。
ひとつの文化施設が出来る時、その建物が建てられる場所との深い関係が存在している。渋谷になぜBunkamuraが誕生したのか? そこにも長い物語があった。
渋谷という街は変化を繰り返している。その発展の始まりは明治時代の鉄道の建設。品川~赤羽間の鉄道が開通し、多摩川の砂利を運ぶための玉川電気鉄道が作られ、東京市電も宮益坂下まで乗り入れるようになった。明治の傑物・渋沢栄一は1918年(大正7年)に現在の東急電鉄の前身会社のひとつである田園都市株式会社を設立し、洗足、大岡山、多摩川台などの土地取得を始めた。
田園都市株式会社は荏原電気鉄道を傘下に置いていた。そこに、鉄道院をやめ、武蔵電気鉄道常務となっていた五島慶太が常務として入社した。そして五島は沿線一帯の開発を進めるとともに、1927年(昭和2年)に東横線を、1938年(昭和13年)には地下鉄(現在の銀座線)を渋谷まで開通させた。五島は鉄道沿線に大学を数多く誘致したが、それが後の渋谷の若者文化の発展にも繋がって行く。
ターミナル駅として発展した渋谷には東横百貨店、玉電ビル、東急文化会館などが第二次大戦後に整備されてゆくことになった。一方で、西武グループも渋谷に進出、西武百貨店、パルコなどを開業させた。渋谷公会堂(1965年オープン、2019年にリニューアルオープン)や、NHKの移転に伴ってのNHKホール(1973年オープン)の開場も続いた。「公園通り」と名付けられた坂道は、渋谷の新たな賑わいを作り出した。

1967年にオープンした東急百貨店本店
東急グループとしても1967年に東急百貨店本店をオープンさせ、東急ハンズや109といった新しいスタイルの商業施設をオープンさせていった。しかし、渋谷のさらなる活性化、再開発のために新たな構想が求められていた。
当時、東急グループを率いていた五島昇の頭の中には「3C戦略」というものがあった。クレジット、ケーブルテレビ、カルチャーの3つの頭文字「C」を取ったもので、それを今後の東急ブループの柱にしようというアイディアだ。それを踏まえて、東急百貨店が中心となりまとめたのが「渋谷計画 1985」である。これは渋谷駅周辺の再開発計画、ホテル・プロムナード計画、カルチャー・ヴァレー計画などから構成されているが、このカルチャー・ヴァレー計画の中に「文化村」構想が登場して来る。
カルチャー・ヴァレーとは、109から東急百貨店本店までの周辺にさまざまなカルチャー関係の施設を集め、本店の脇に「プレ文化村」を建設すること、さらにそれが発展して、松濤地区や遠くは東大駒場キャンパス付近まで続く文化的なエリアになることがイメージされていた。本格的な文化をそこに創設したいという思いもあり、それまでの若者文化ではなく、ハイ・カルチャーを目指した大人の楽しめる文化施設を創設することが計画されていた。そこから本格的に「文化村」の構想がスタートする訳である。
~Vol.3へ続く~
片桐卓也 Takuya Katagiri
1956年福島県生まれ。フリーの編集者/ライターとして仕事を始め、1990年頃から本格的にクラシック音楽のライターとして執筆活動を行うようになった。現在、「音楽の友」「レコード芸術」「モーストリー・クラシック」などのクラシック系音楽雑誌に、演奏家のインタビュー、コンサートのレビューなどを定期的に寄稿している。