2019 / 10 / 23
Bunkamuraと日本のクラシックシーンの30年の歩み~vol.3 たくさんの創意・工夫・努力に満ちたBunkamuraのアイディア
【Bunkamura30周年記念特別連載】
日本全体がコンサートホール建設の流れへ
「文化村」構想が発表されたとは言え、それはあくまでも机上のプランに過ぎなかった。それが具体的な形を取り始めるのは1984年のこと。東急百貨店内に文化事業開発室が作られ、東急グル―プの中からさまざまな人材が集められた。後に東急文化村社長となる田中珍彦(うずひこ)もそのひとりで、当時は東急エージェンシーに在籍していた。
1984年頃の日本のクラシック音楽界を振り返ってみる。1982年開館したザ・シンフォニーホール(大阪)がクラシックのコンサート専用のホールとしてオープンしていた。首都圏では、赤坂アークヒルズ内にサントリーホールがクラシック専用ホールとしてオープンするが、それは1986年のことだった。日本全体として、クラシック専用のパイプオルガンも持つコンサートホールを建設するという流れが生まれていた時代でもあった。
そんな時代の中で新たに求められる文化施設とはなにか? それを真剣に考えることが、文化村構想の原点となった。田中いわく「人間の文化活動の原点は『描く、歌う、踊る』だろう。そうすると『美術、音楽、舞踏(演劇)』という要素が出てきた」と。そこから複合的な文化施設という具体案が浮かび上がった。コンサートホール、劇場、美術館、映画館など、さまざまな文化が集まる集合体としての施設。日本の中でも、ひとつの企業グループがそうした複合施設を持つという例は他にない。
それに加えて、東急沿線で生活し、渋谷を通過する人たちの多様性を考えた時に、さまざまな利用の形が可能な施設というテーマも生まれた。基本的な施設のプランを検討する上で、当時の最先端を行く専門家たちに集まってもらい「プロデューサー・オフィス」が設立された。オーチャードホールに関して言えば、岩城宏之(指揮者・故人)、前田憲男(編曲家・故人)、冨田勲(作曲家・故人)、佐藤信(演出家)というメンバーである。さらに加えて、劇場技術のアドヴァイザー・グループも結成された。コンサートホール、劇場を使う人の意見を最初から入れて作るという発想に立った建設計画は珍しいことであった。
独自の工夫を凝らしたフランチャイズ制という運営方法
建物だけでなく、その運営方法にも独自の工夫が凝らされた。欧米ではそのコンサートホールを本拠地とするオーケストラなり、バレエ団があるのが当然なのだが、日本にはまだその考え方はなかった。そこでBunkamuraの場合はオーチャードホール、シアター・コクーンそれぞれにフランチャイズ制を導入することになった。オーチャードホールと東京フィルハーモニー交響楽団がフランチャイズ契約を交わした。
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オーチャードホールとフランチャイズ契約を交わした東京フィルハーモニー交響楽団 ©上野隆文
また文化を支える上で大事なのがスポンサーの存在である。Bunkamuraではオフィシャル・サプライヤーという形で新しいスポンサー制度を導入した。これは1公演ごとではなく、長期的にBunkamuraをサポートしてもらおうという発想で、それによって長いスパンによる事業の展望を開くことが出来る。この他にも、文化施設として、日本にはそれまで例のなかったアイディアをたくさん詰め込んだ施設としてBunkamuraはスタートした。1988年には施設名が正式にBunkamuraと決定され、各施設の名称(オーチャードホールなど)も発表された。そして、1989年9月の開業を迎えることになる。それが前代未聞のバイロイト音楽祭の引っ越し公演であった。
~Vol.4へ続く~
Bunkamuraと日本のクラシックシーンの30年の歩み~vol.2 渋谷を巡る物語と「文化村」構想の誕生
Bunkamuraと日本のクラシックシーンの30年の歩み~vol.1 この30年、大きく変化した音楽状況を振り返る
片桐卓也 Takuya Katagiri
1956年福島県生まれ。フリーの編集者/ライターとして仕事を始め、1990年頃から本格的にクラシック音楽のライターとして執筆活動を行うようになった。現在、「音楽の友」「レコード芸術」「モーストリー・クラシック」などのクラシック系音楽雑誌に、演奏家のインタビュー、コンサートのレビューなどを定期的に寄稿している。