2020 / 02 / 20
ベートーヴェンを取り巻く12人の音楽家たち 文・萩谷由喜子~第2回 ベートーヴェンとモーツァルト
【ベートーヴェン生誕250周年 特別記念連載】

イラストレーション:aggiiiiiii
生涯ただ一度の出会いはあったのか?
1732年生まれのハイドン、1756年生まれのモーツァルト、1770年生まれのベートーヴェンは「ウィーン古典派3巨匠」と呼ばれる作曲家たちです。うち、ハイドンとモーツァルトとの心温まる友情はつとに有名ですし、ハイドンとベートーヴェンとの間にも一時期、師弟関係のあったことが知られているのに対して、モーツァルトとベートーヴェンとの直接のつながりとなると、実のところ、霧のヴェールに包まれています。果たして、この2人は実際に顔を合わせていたのでしょうか?
モーツァルトのサクセス・ストーリーに駆り立てられた父ヨーハン
大聖堂で有名なケルンの南東約25キロ、ライン左岸に位置するボンは、13世紀以来、ケルン大司教兼神聖ローマ帝国の選帝侯の居住地として栄えてきました。
ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、ベルギー出身のバス歌手で宮廷楽長に昇進していた同名の祖父の孫としてこの街に生まれました。父親のヨーハンも宮廷に仕えるテノール歌手でしたが、その父ほどの音楽能力にも人物としての器量にも恵まれていなかったようです。
ですから、一家はもっぱら祖父の名声と人望、経済力を拠りどころとしてこの街に暮らしていました。ところが、ベートーヴェンが3歳のとき、頼みの祖父が亡くなってしまいます。
亡父の後任として宮廷楽長に任命されるのをあてにしていたヨーハンは、別の人物がこの地位に就くと、怒りと不満を募らせて酒に慰めを見出すようになります。その一方、わが子の楽才に気づくや、異様な情熱と執念を息子の音楽教育に傾け始めます。
この1770年代の半ば、ベートーヴェンよりも14歳年長のザルツブルクの神童モーツァルトは、とっくにウィーン、パリ、ロンドンなどの宮廷で御前演奏を成功させ、3回にわたるイタリア旅行も敢行して数々の栄誉にも浴し、ヨーロッパ各地にその名を轟かせていました。そんな神童のサクセス・ストーリーを羨望していたヨーハンが、わが子を第二のモーツァルトに仕立て上げようとする夢を抱いたとしても、誰がヨーハンを責めることができるでしょうか。
ただし、ヨーハンのわが子へのレッスンは、モーツァルトの父レオポルトのような理知的で体系だったものではなく、思いつきと強引さに満ちたもので、しばしば暴力も伴いました。少年ベートーヴェンはそれに耐えて祖父譲りの楽才を伸ばし、幸い良師にも恵まれて、14歳のときには宮廷の次席オルガニストの地位を与えられ、少年の身ながら150グルデンの年俸も得られるようになります。
16歳のベートーヴェンの謎のウィーン旅行
そんなベートーヴェンが、憧れの音楽の都ウィーンへ小旅行を決行したのは1787年の春のことでした。
ウィーンはボンの南東約730キロ。ライン川とドナウ川を船でゆく旅は片道1週間ほどかかります。その船賃やらウィーンでの滞在費など莫大な路銀を、どのようにして16歳の少年が工面したのかはわかっていません。そもそも、この旅は彼の個人旅行なのか、それとも、ボン宮廷からの派遣であったのかさえも判然としないのです。ただ、ウィーン到着後いくらもたたないうちに、ボンの父親から「母危篤、すぐ帰れ」の手紙を受け取った彼が、何とか母の死に目に間に合おうと急ぎに急いでボンへ戻る帰途、アウグスブルクの知人からお金を借りていることだけは判明しているので、彼の個人旅行であったように思われます。
モーツァルトの死生観
ところで、ウィーンに向けてベートーヴェンがボンを発ったのは3月下旬とされます。
ちょうど同じ頃、ウィーン、グローセ・シューラー通り846番地の1階(日本でいえば2階)、現在の通称「フィガロ・ハウス」に住むモーツァルトのもとに、故郷のザルツブルクから、父親レオポルトが病に倒れた、という知らせが届いていました。

モーツァルトが住んでいた通称「フィガロ・ハウス」
モーツァルトにはその9年前、旅先のパリで、最愛の母をひとりぼっちで看取った辛い経験がありました。そのときから彼の心の中に、人は誰でも、いつかは死の旅路に就くもの、それは恐れるべきものではなく、むしろ救いをもたらすもの、というある種の悟りの境地のようなものが生まれていました。今、父が重い病の床にあると知った彼の胸中に広がったのはこの深い諦念だったに違いありません。彼は机に向かい慎重に言葉を選びながら、父親宛にこのあまりにも有名な手紙を書いています。
「死は、ぼくたちの人生の最終目標ですから、ぼくはこの数年来、この人間の最上の友とすっかり慣れ親しんでしまいました。その結果、死の姿はいつのまにかぼくには少しも恐ろしくなくなったばかりか、大いに心を休め、慰めてくれるものとなりました!そして、死こそぼくらの真の幸福の鍵だと知る機会を与えてくれたことを(ぼくの言う意味はおわかりですね)神に感謝しています。ぼくは(まだ若いとはいえ)ひょっとしたらあすはもうこの世にいないかもしれないと考えずに床につくことはありません。1787年4月4日」
オペラ『ドン・ジョヴァンニ』に忙殺されるモーツァルト
もしかしたら、この手紙が書かれた日だったのかもしれません。ベートーヴェン少年が震える手でおずおずと、「フィガロ・ハウス」の呼び鈴を押したのは。
「モーツァルト先生におめにかかりたくて、ボンからまいりました。お取次ぎいただけませんでしょうか」
応対に出た弟子は少年の野暮ったい身なりに目を走らせながら、気の毒そうに言いました。
「遠いところからいらしたのですね。あいにく、先生は今とてもお忙しくて、面会はおことわりされているのですよ」
弟子の言葉は嘘ではなく、モーツァルトはこのとき、オペラ『フィガロの結婚』の大成功に気をよくしたプラハの劇場から新たに依頼された『ドン・ジョヴァンニ』の作曲に忙殺されていたのです。父親の必死の説得に背いてザルツブルクを飛び出し、今、瀕死の父親の病床にも駆けつけられない自分を傲岸不遜なドン・ジョヴァンニに、自分の暴走を悲しげな顔で諫めてくれた父親を騎士長の霊に重ね合わせながら……。
願望から発生した?エピソード
しかし実際に、ベートーヴェンがモーツァルトを訪問したかどうかは不明で、前述の訪問場面を含め、これにまつわるすべての話は想像の産物でしかありません。
それでも、モーツァルト研究家のオットー・ヤーン(1813-1869)は自著『モーツァルト』の中に、次のエピソードを紹介しています。
ヤーンによれば、ベートーヴェンはモーツァルトに面会が叶い、その目の前で用意してきた自作曲を弾いたところ、モーツァルトは通り一遍の反応しか示さなかったそうです。するとベートーヴェンは「では、この場でテーマをいただけませんか」と懇願してモーツァルトからテーマをもらうと、それをもとに目の覚めるような即興演奏を繰り広げたので、モーツァルトは驚嘆し、隣室にいた友人たちに「彼に注目したまえ。いつの日か彼は、世界に語り継がれる仕事を残すだろう」と耳打ちしたということになっています。
この話はいくつかの伝記類にも踏襲されていますが、事実であるという確証はなく、どうやら、2人の大作曲家がこんな形で出会っていたら嬉しいのだけれど、という願望の結晶のように思われます。何しろ、この5年後にベートーヴェンがボン宮廷から奨学金を得て晴れてウィーンへ本格的進出を果たしたとき、モーツァルトはすでに泉下の人となっていたのですから、2人を出会わせるとしたら、この1787年春の短期滞在時よりほかに機会はないのです。
オマージュと密かな自負と
エピソードの真偽はともかく、これだけは言えるでしょう。ベートーヴェンは作品を通じてモーツァルトを深く敬愛し、その音楽に一歩でも近づきたいと切望しつつ、強い意志力を以って、その上にさらに自分独自の音楽を打ち立てようと刻苦勉励していたと……。
モーツァルトの「ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調 K.466」のもっとも有名なカデンツァ(エンディングに演奏される無伴奏のソロ)はベートーヴェンの書いたものです。また、「ピアノ協奏曲 第24番 ハ短調 K.491」冒頭句を、ベートーヴェンは自身の「ピアノ協奏曲 第3番 ハ短調」の冒頭に頂戴しました。ちょっと、両協奏曲の冒頭部を聴き比べてみてください。ね、「モーツァルト先生!わたしのハ短調協奏曲の頭に、先生をお祀りしましたよ」と言っているでしょう。
ピアノとチェロのための作品を見てみましょう。彼は「モーツァルトの歌劇《魔笛》より「恋人か女房か」の主題による12の変奏曲 へ長調 Op.66」を書いたのに飽き足らず、さらに「モーツァルトの歌劇《魔笛》より「恋を知る男たちは」の主題による7つの変奏曲 変ホ長調 WoO.46」も書きました。
2本のオーボエとイングリッシュホルンのためには「《ドン・ジョヴァンニ》の「手に手を取り合って」の主題による12の変奏曲 ハ長調 WoO.28」も書いています。極め付きは、モーツァルトの「ピアノとオーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴットのための五重奏曲 変ホ長調 K.452」を規範とする、「ピアノと管楽のための五重奏曲 変ホ長調 Op.16」です。両者は全く同一の編成、しかも同じ調性です。
実際の邂逅があったかなかったかは謎のままでよいではありませんか。これらのあきらかなオマージュ作品に、ベートーヴェンのモーツァルトへの強烈なラブコールと、憧れの人を超えたいという密かな自負を見出すことができるのですから……。
▲コラム内でご紹介した楽曲はこちらよりお聴きください。
~第3回 ベートーヴェンとハイドンへ続く~
萩谷由喜子 Yukiko Hagiya
音楽評論家、ジャーナリスト。日舞、邦楽とピアノを学び、立教大学卒業後は音楽教室を主宰する傍ら音楽評論を志鳥栄八郎氏に師事。専門分野は女性音楽史、日本のクラシック音楽受容史。『音楽の友』『モストリークラシック』等の批評欄を担当、日本経済新聞、産経新聞等に音楽記事を執筆。NHKラジオ深夜便に随時出演。クラシック音楽講座の講師も務める。主な著書に『幸田姉妹』『田中希代子』『諏訪根自子』『蝶々夫人と日露戦争』『クララ・シューマン』等。
ホームページ http://www7b.biglobe.ne.jp/~yukiko99/
ブログ http://yukiko3916.livedoor.blog/