2015 / 11 / 21
【特別インタビュー】「ウィーン気質」公演を通して~指揮者 阪哲朗が語るオペレッタの魅力
11月19日。11月21日(土)の初日を目前にした、東京二期会オペラ劇場11月公演『ウィーン気質』(於:日生劇場)のゲネプロが行われました。
この公演は、阪哲朗指揮、荻田浩一演出、東京フィルハーモニー交響楽団演奏でお届けする、東京二期会恒例の日本語上演オペレッタシリーズで、4日間4公演のうち、2公演ずつのダブルキャストで上演されます。
この日のキャストは、ダブルキャストのうち、21日/23日公演組。興奮冷めやらぬゲネプロ終了直後、我々は指揮者の阪哲朗さんをたずねました。
今回の『ウィーン気質』公演について、オペレッタそのものについて、そして阪さんご自身とオペレッタについて、3つの視点からお話を伺いました。
Vol.1
【今回の『ウィーン気質』公演について】
〈「日本語上演」の落とし穴〉
〈楽曲の構成について〉
・アドルフ・ミュラー・ジュニアの編纂
・つなぎの違和感
・スコアが存在しない
〈公演の楽しみ方〉
〈日本語版での演出の工夫〉
Vol.2
【オペレッタについて】
〈オペラとオペレッタ〉
〈ヨーロッパの人々の生活に寄り添うオペレッタ〉
〈オペレッタに対する日本人の肌感覚〉
Vol.3
【阪さんご自身について】
〈オペレッタに惹かれた理由〉
〈ヨーロッパで就職して〉
〈小劇場ならではの魅力〉
〈最後に〉
【今回の『ウィーン気質』公演について】
〈「日本語上演」の落とし穴〉
普段外国語上演に慣れている歌手たちにとって日本語上演は簡単なように思えてしまいます。もちろん母国語だし当たり前のように理解できるから。
ただし、外国語上演での苦労がない分、落とし穴があります。まず、語感の問題はどの言語でもあることだけれど、歌手たちは楽譜に正確にということに重点を置いて歌うあまり、リズムとあわない語感で歌ってしまいます。日本語を歌っているのに、何を言っているのか伝わらないという事態が起きるわけです。楽譜に正確にすることが念頭にあるから、僕が「ここはくずしたほうがいい」と伝えますが、そうはいっても「楽譜と違う」という感覚が抜けないので、なかなか難しいですね。
では、どうやって伝えればいいのか。僕の、外国語の中で生活した経験からいえば、一文の中に二つわからないことばがあるならまだ表情などから推測できても、三つを超えると途端にわからなくなるんですよね。ドイツ語だけでなく、英語でもそうだと思いますが。その経験を逆手にとって「じゃあ単語がきこえていれば、言っている意味はわかるのではないか」と考えたんです。母国語で考えてみると、「僕」という単語と、「恋人」という単語とが聞こえていれば、多少助詞がわからなくたって、「僕が恋人」とは考えづらいから、「僕の恋人」って言っているのかな?って、そう推測できますよね。だから「僕」の「ぼ」、「恋人」の「こ」を大切に、などといった指示をします。
そして、その過程でもう1つ気をつけているのは観客の語彙に合わせて演出していくということです。
日本語を客観的にきき、外国人の方が日本語をきいたらどう思うだろうかという視点で冷静にアドバイスしています。短母音と長母音など言語によって違うものがありますし、同じ音符でもどう歌うかを言語に合わせて変えていかないといけない。日本語って本当に難しい。僕は日本語が得意なわけじゃないし、むしろ標準語とはイントネーションが逆の関西人だし(笑)
日本歌曲の先生ではないけれど、日本語の言葉の伝え方には気をつかっています。
〈楽曲の構成について〉
・アドルフ・ミュラー・ジュニアの編纂
元々の素材は一級品なんですよね。逆に言うと、元からある名曲を集めているっていうのは、オペラ用ではない、ということでもあり、歌手にカラオケのようにメロディーラインを全部なぞらせることになってしまう…、それはプロの歌手からすると不自然なこと。オーケストラがずっと追走しているわけで、歌詞が引き立たないことになってしまうんですね。
あとは、器楽的な拍子や、あっちに飛んだりこっちに跳ねたり、ワルツなどのリズム感に合わせていたり、歌向きのリズムではないのに無理矢理合わせて歌う必要がある。歌っていうのは本来どっしり重心を落として歌うのが自然ですから、歌手にとっても無茶な要求をしていることになります。だからバランスをとるのがとても難しい。こういった点から、若手の登竜門としてよく用いられる課題演目でもあります。
・つなぎの違和感
たとえば、モーツァルトのオペラであっても自筆譜を読み込んだりしてしじゅう専門的に勉強していると、他の手が加わったレチタティーヴォが出てくると「あ、違う…」と違和感があるものなんですが。あ、なんとなくですよ、まさか本人に電話して聞くわけにはいきませんから(笑)
それと同じようにこの作品も一つ一つの楽曲は勿論いい素材なんですがつなぎの違和感はある。その違和感、いわゆるあと一歩の部分、橋渡しの部分を演奏でカバーする、自然に聴かせること。それが我々の大切な役目だと思っていますね。
・スコアが存在しない
実はこの演目、オーケストラのスコアがないんです。聴いて覚えてその場でやる。今回は二期会の裏方さんが全部そろえて作ってくださったのできっちり揃っていますが。
指揮者はじめ歌手以外の譜はピアノ譜。オリジナルじゃなくてアドルフ・ミュラー・ジュニアの編纂なのでシュトラウス協会のリストからも漏れています。
歌手はヴォーカルスコア(ピアノと歌)を使っていて、普段の演目ではヴォーカルスコアとオーケストラスコアとが用意されているはずですが、この演目に関しては特殊だというわけです。
〈公演の楽しみ方〉
まず、こうもりの「この騒ぎは全部シャンパンのせいだ!」っていうシャンパンオチを踏まえて、このオペレッタでも「もしかして全部シャンパンのせいなのかも?」って台詞がある。でもシャンパンではなくて実はウィーン気質なんだっていうオチ。こうもりがわかる人にはニヤッとできるようなオチで、わかる人がわかればいいという、こういう部分の編纂の工夫もあります。
あとは、劇中に時代の風刺が含まれるのもオペレッタの特徴ですので、どんなアドリブが飛び出すのか、そういったところに注目するのも一興だと思います。
〈日本語版での演出の工夫〉
そして、言葉の問題。とっても訛りの強いザクセンとウィーンとでは方言が違って、当時の日本でもそうだったと思うんですが、例えるなら薩摩弁と津軽弁がいきなり出会って話すみたいなものですから全然話がかみ合わない。秀吉だって、四国を攻めたときもわからなかったというじゃないですか。能の言葉でコミュニケーションをとったという。そういったかみ合わなさがおかしみを生むんです。
僕も初演を観たときは大混乱でした。わからないって言っても両方わからないから大爆笑しているツボもわからないんですけど。とにかくどっかんどっかん笑うんです。
そのニュアンスを伝えようと思うと日本のお客さん仕様にする必要がありますが、日本で原語の通りに45分も会話を続けていたら、お客さんがついてこれなくなってしまう。
だから日本語上演のときは楽しい名曲をメインにして、そして最後の1~2分で「ああ、君は実は誰々だったんだね」ということで種明かしされる。とにかくこじれたところから話を戻すということだけに集中した、ガラコンサート風の演出になっています。
・・・Vol.2に続く