2015 / 11 / 21
【特別インタビュー】「ウィーン気質」公演を通して~指揮者 阪哲朗が語るオペレッタの魅力 Vol.2
【オペレッタについて】
〈オペラとオペレッタ〉
まず、オペレッタは、オペラもですが、映画以前の総合芸術です。簡単に言うと、オペラにはないのは、ダンスと、どれも簡単なものですが、芝居です。そしてアドリブなどで現体制への批判、風刺がされることも特徴といえるでしょう。
また、似たような時代につくられたものでも、オペラでは人が殺されるのが当たり前。たとえばトスカなんかでも登場人物のほとんどが殺されてしまいますよね。その点、オペレッタでは殺人は起きません。オペレッタのストーリー展開の仕方は基本的には共通で、単純でわかりやすい仕立てになっています。とはいえ、今回の『ウィーン気質』でもそうですが、最終的にはまとまるとわかっていても、第一幕の終わりの時点では、何が起こるんだろうと期待をさせられるし、わくわくさせられますよね。
〈ヨーロッパの人々の生活に寄り添うオペレッタ〉
次に、本場ヨーロッパのオペレッタ人口というのは、やっぱりお年を召した方たちが中心で、今日は天気も悪いし、かといって家にいるのも気分もうかないし、ちょっとオペレッタでも観に行こうか、という感じで当日ふらっと行って、大体1500円から2000円のお値段で観られる。たとえば日本でいうむかしの芝居、江戸時代の寄席のように、人々にとっては生活の一部のような、身近なものです。
演出でいえば、バレエ団やダンサーを使うこともありますし――バレエ演出出身の演出家がよくああいった演出をしたりもするのですが――魅せるという意味ではショーの側面もあるし、なんといっても気楽さがある。観念的なこと、哲学的なことなどを勉強しなくてもわかる、「せっかくウィーンに来たのなら楽しみましょうよ!」、というような昔のノリです。
当時は時代も爛熟してきていました。ハプスブルク帝国がだんだん落ちていく、たとえばソ連の晩年のような感じでしょうか、領土を広げすぎたゆえに絵画でも浮世絵が出たり、万博でも東洋風味がでたり、オペラではばらの騎士が作曲されていたりとか。世紀末、末だけでなく世紀を超えてからもですが、第二次大戦の前の時代ですね。馬車もでてきていたでしょう。時代を反映するという側面がありますから、オペレッタを観ることでその時代の世相を懐かしむ、あのころはいい時代だったよねーという感傷に浸る、という観方もありました。もう懐かしむことができる人は亡くなってしまいましたけど。昔はブラームスと自分のおじいさんが一緒に飲んでいた、なんていう人もいたんですよ。ブラームスとシュトラウスも仲がよかったんですよね。
〈オペレッタに対する日本人の肌感覚〉
そもそも、ことばの壁がかなり大きかったと思うんですよ。
言葉が問題にならないもの、かたい音楽、いわゆる絶対音楽といわれる、言葉の入る余地のない音楽が入り口になっていたのだと思います。ベートーヴェンだったり、バッハだったり。そういう哲学的な「音楽はこう聴かなければならない」というかたい音楽こそが「良いもの」とされる情操教育で、クラシック、イコール、上級なもの、高尚そうなものだと思い込まれてしまっている面があるのではないでしょうか。聴く、聴かない、というのは、音楽の正しいか間違っているかではなく、結局は好きか嫌いかという問題だと思うんですね。オペレッタのように気楽に楽しんでいいものだっていう認識が薄いのでは。
だとすれば、我々上演するほうが仕掛けを工夫してその楽しさをつたえなければならない。工夫の仕方もいろいろで、豪華な舞台に見せよう、という手もありますね。ただ、豪華なヴィジュアルで伝えようとすると制作費用が高くつきます。一方で、演出を工夫する、音楽の質を高めるといったアナログなアプローチなら、ヴィジュアルよりはお金がかからずに済みます。才能のある音楽家たちを集めれば、練習を重ねれば重ねるほど、いくらでも質を高めていけますよね。
・・・Vol.3に続く