2020 / 05 / 15
ベートーヴェンを取り巻く12人の音楽家たち 文・萩谷由喜子~第5回 ベートーヴェンとウェーバー
【ベートーヴェン生誕250周年 特別記念連載】

イラストレーション:aggiiiiiii
楽器の口を借りて『英雄』交響曲を論評
1770年にライン河畔のボンに生まれ、1792年秋からウィーンに暮らしたベートーヴェンと、1786年に北ドイツのリューベック近郊に生まれ、1817年からドレスデンに定住したウェーバーとの間に、直接の交流があった形跡は見出せません。
しかし、ウェーバーからみて、ベートーヴェンは時代の最先端をゆく革命的音楽家として、目の離せない存在でした。そのことは、彼が1809年に、オーケストラの楽器たちを擬人化して書いた、ユーモラスなコラムによくあらわれています。このコラムは、その日、ベートーヴェンの交響曲第3番『英雄』を弾かされて楽器庫に帰ってきた楽器たちが繰り広げるおしゃべりの形がとられています。まず、コントラバスがこう言います。
「やりきれん。毎日あんな曲があらわれるなら、あんなやつは悪魔が持って行け、だ。わしはみんなも知っているように、かなり力も強く丈夫にできてはいるのだが、我慢できなかった。もっと続いていたら、5分以内に魂柱(ヴァイオリン属の楽器の表板と裏板をつないで楽器全体を共鳴させる、まさに楽器の魂と言える小さな柱)は倒れたろうし、生命の弦もひき切られただろう」
するとチェロが引き取って「おとっつぁんの言うことはまったく正しいよ。わしも疲れたのなんのって……」
このように、ウェーバーは、大胆極まりないベートーヴェンの楽器法を、ちょっぴり皮肉を込めて楽器たちにぼやかせつつ、驚嘆しているわけです。
「ベートーヴェンは、もはや精神病院行きだ」
その数年後、交響曲第7番を聴いたときは、ウェーバー自身の言葉で、次のようにコメントしました。
「ベートーヴェンは、もはや精神病院行きだ」
彼の言葉は、この交響曲への否定的な意見の代表としてしばしば引用されますが、そうとばかりは言えないかもしれません。
第7番全体を貫く強靭なリズムは、まるで人間の生命の根幹である心臓の鼓動を思わせるもので、それが、この交響曲のみずみずしい生命力の源泉です。このような高らかな人間賛歌を、徹底的なリズムの汎用によって見事に実現させたベートーヴェンの手法は、それまで誰にも思いつかなかった独創的アイディアではないでしょうか。その独創性を目の当たりにしたウェーバーが、「うーん、常人の頭では到底思いつかないことだ、ベートーヴェンは精神病院行きの一歩手前くらい、天才的だ!」と驚愕してこの感想を述べた、つまり、苦労人ウェーバーならではの、賛辞の裏返しであった、と思えるのです。
父親の巻き添えで、文字通り舐めた辛酸
実際、カール・マリア・フォン・ウェーバーの味わった苦労は、人並み外れたものでした。
事の発端は、彼が生まれる4年前に、父フランツの兄の娘コンスタンツェが、モーツァルトと結婚したことに遡ります。山師気質のフランツは、有名な元神童と親戚になったことに発奮してしまい、52歳のときに30歳も年下の2度目の妻との間にカールを授かると、「よし、この子を第二のモーツァルトに!」と決意するのです。カール誕生の翌年、フランツは旅回り劇団を旗揚げして一家で各地を遍歴し、巡業先のあちこちで、その土地、その土地の音楽家にカールを師事させます。虚弱体質だったカールは、4歳まで歩かなかったそうですが、それでもピアノや作曲の腕をあげ、13歳で最初のオペラ『森の娘』を作曲するまでとなりました。
そして1804年6月、17歳の若さでブレスラウ歌劇場の楽長に就任します。翌々年の夏の初めのこと、歌劇場の仕事を終え、疲れきって帰宅したカールは、テーブルの上にワインの瓶をみつけます。
おっ、いいものがあった!とばかり、ラッパ飲みした瞬間、彼は喉を掻きむしって倒れました。父親がワインの空き瓶に、一攫千金を当て込んで研究中の銅板印刷業に使う、劇薬の硝酸液を入れておいたのです。
辛酸を舐めるどころか、硝酸を飲み込んでしまったのです。吐き出していれば、まだ口の中の大やけどで済んだところ、嚥下したため重症となります。命だけはとりとめたものの、2か月間も床に就き、生涯かすれ声しか出せなくなってしまいました。
1809年、カールはカールスルーエの音楽監督の地位を得ますが、ナポレオン戦争の余波をかぶってこの地位は消滅。やむなく、シュトゥッツガルト宮廷の事務職員となります。
ある日、宮廷から公金を預かって帰宅。まさに、猫に鰹節。父親の使い込みにより、親子で牢屋入りの憂き目に。その獄中で、脇目もふらずに仕上げたのが、オペラ『シルヴァーナ』でした。
そうです。旅回り一座の息子として育ち、無類の読書好きだった彼の本領はオペラにありました。それも、当時のドイツはまだイタリア・オペラ全盛の時代だったというのに、彼はひたすらドイツ語台本に作曲していたのです。
ウェーバーはその後、友人のクラリネット奏者との演奏旅行を成功させて、生まれて初めてまとまったお金を手にすることができました。よかったね。カール!
そこへ届いたのが、父親の訃報!駆けつけてみれば借金の山。借金取りたちは、カールのやっと稼いだお金を、容赦なくむしりとっていきました。
愛妻を得て書いた『舞踏への勧誘』と『魔弾の射手』
このように、最後の最後まで父親に苦しめられたウェーバーですが、ついに、一輪の可憐な花と出会います。6歳年下の新進歌手カロリーネ・ブラントでした。
1817年1月、ドレスデンの宮廷楽長に迎えられたウェーバーはその年の11月、カロリーネを花嫁に迎え、家庭の幸福を手に入れます。有名なピアノ曲『舞踏への勧誘』は、新婚の夢醒めやらぬ1819年に作曲され、愛妻カロリーネに献呈されています。
この愛妻に励まされて書いた『魔弾の射手』は、ドイツ語台本を用いドイツ民謡を素材にとり入れた、音楽史上初の成功作で、1821年6月18日にベルリンの王立劇場で初演されて空前の大成功を収め、ドイツ国民オペラの金字塔として広く愛好されるようになり、ウェーバーの名を一躍高めます。
『フィデリオ』と『魔弾の射手』
実は、『魔弾の射手』初演の7年前、ベートーヴェンは彼唯一のオペラ『フィデリオ』の最終決定稿を初演しています。彼は着手からこの最終決定稿の完成に至るまでに9年の歳月を費やし、オペラ創作力のすべてをこの作品に注ぎ込みました。そして、1805年の初稿、1806年の第二稿の初演を経て、1814年の最終決定稿によって、文句なしの大成功を収めたのです。
この1814年、ウェーバーはプラハ歌劇場の芸術監督でしたから、ウィーンには比較的容易に行くことができました。当然、彼は聴きに出かけているはずです。
ウェーバーが最も感銘を受けたのは『フィデリオ』の序曲だったものと思われます。この序曲は、冒頭、全オーケストラが、力強く明快な付点リズムの基本動機を強奏して始まり、直後、ホルンがやさしく優美なアダージョ楽句でこれに応えます。この対比的な2つの素材を援用しながら、全体に音楽的統一性をもたらしていく手法、オペラ全体の性格とストーリーを凝縮する予告性に、ウェーバーは深く魅せられことでしょう。
序曲を聴けば、これからどんな物語が展開されるのか予感できる。そういう序曲を書かなければならない。あのホルンの旋律の美しいこと、用い方の巧みなことはどうだ!よし、僕もああいう序曲を書くぞ!
ウェーバーの『魔弾の射手』序曲は『フィデリオ』序曲よりも規模が大きく、登場する各素材もより一層ドラマティックですが、基本的には『フィデリオ』序曲と同様に、印象的な序奏と壮大なコーダを持つ、自由なソナタ形式で書かれています。
『フィデリオ』も『魔弾の射手』も、ドイツ語の地のセリフと対話が入った、ジングシュピールと呼ばれる形式のオペラである点では、モーツァルトの『後宮からの逃走』及び、『魔笛』の系譜の作品です。しかし、モーツァルトの2作がコミカルな内容であるのに対して、ベートーヴェンは、無実の罪で獄につながれている夫を男装した勇敢な妻が救出する、という重いテーマを扱い、ウェーバーは悪魔の宿る森を舞台とする怪奇幻想的な恋物語としてこの『魔弾の射手』をつくり上げ、2人とも大成功を収めました。
2人は、ドイツ語オペラという高い霊峰に別々の登山口から昇って、2人とも、山頂のすがすがしい空気を吸い蒼穹を仰ぐことのできた、名登山家でした。
39歳で異郷の風に
1824年、ロンドンのコヴェント・ガーデン歌劇場は、イギリスでも大人気の『魔弾の射手』の作曲家に是非英語台本のオペラも書いてもらおうと、ウェーバーに新作を委嘱してきました。願ってもない話でしたが、このとき、彼は持病の結核が進んで、旅など論外でした。しかし、彼はこの話を引き受けたのです。作曲料が破格だったからです。
「どっちみち長くはもたない命なら、カロリーネに金をつくってやりたいんだ」
病み衰えた体に鞭打って1年がかりでオペラ『オベロン』を完成させた彼は、1826年3月、そのスコアを懐に、よろよろとロンドンへと旅立ちました。
4月12日、『オベロン』の初演はロンドンっ子の絶賛を浴びます。続けて12回もの公演を成功させたウェーバーは、明日はいよいよ妻子の待つドレスデンに帰国できるという6月5日、異郷で風となりました。39歳でした。
~第6回 ベートーヴェンとロッシーニへ続く~
萩谷由喜子 Yukiko Hagiya
音楽評論家、ジャーナリスト。日舞、邦楽とピアノを学び、立教大学卒業後は音楽教室を主宰する傍ら音楽評論を志鳥栄八郎氏に師事。専門分野は女性音楽史、日本のクラシック音楽受容史。『音楽の友』『モーストリー・クラシック』等の批評欄を担当、日本経済新聞、産経新聞等に音楽記事を執筆。NHKラジオ深夜便に随時出演。クラシック音楽講座の講師も務める。主な著書に『幸田姉妹』『田中希代子』『諏訪根自子』『蝶々夫人と日露戦争』『クララ・シューマン』等。
ホームページ http://www7b.biglobe.ne.jp/~yukiko99/
ブログ http://yukiko3916.livedoor.blog/