2020 / 08 / 19
ベートーヴェンを取り巻く12人の音楽家たち 文・萩谷由喜子~第8回 ベートーヴェンとシューベルト
【ベートーヴェン生誕250周年 特別記念連載】

イラストレーション:aggiiiiiii
生まれたときから憧れの星
「たゆまざる鍛錬により、モーツァルトの精神をハイドンの手から受け取りたまえ」
ヴァルトシュタイン伯爵のこの名言を餞別として、ボンの選帝侯と貴族たちに送り出されたベートーヴェンが、9日間の長旅を経て憧れのウィーンに到着したのは、1792年11月10日のことでした。それから4年余りを経た1797年1月31日、フランツ・ペーター・シューベルトがウィーン郊外(現在は市内)リヒテンタール教区で生まれています。
ベートーヴェンはすでにその頃までに、「作品1」の3曲のピアノ三重奏曲や、「作品2」の3曲のピアノ・ソナタ、「作品5」のチェロ・ソナタ第1番と第2番といった、初期の一連のピアノ独奏曲や室内楽曲を発表して、ウィーン音楽界に名の知られた存在となっていました。ですから、シューベルトにとってベートーヴェンは、もう初めから、天高く輝く栄光の星だったわけです。
「コンヴィクト」のオーケストラでベートーヴェンの交響曲を弾く
小さな私立学校の校長を本業とするシューベルトの父親は大の音楽愛好家で、上の息子たち、つまりシューベルトの兄たちと共に、毎晩のように家庭音楽の夕べを楽しんでいました。そんな家庭に育ったシューベルトも早くからヴァイオリンやピアノを達者に弾き、1808年、11歳のときに難関を突破して国立神学校「コンヴィクト」(現在のウィーン少年合唱団の前身)の奨学生試験に合格します。コンヴィクトでは一般学科も学び、合唱児童として歌うほか、音楽全般の授業も受けます。シューベルトはオーケストラの第1ヴァイオリンを担当して1年後にはリーダー格となり、先生が不在の折には指揮も任されるまでとなりました。
当時、このオーケストラでは、宮廷楽長のレオポルト・コジェルフやハイドン、モーツァルトらの交響曲と並んで、ベートーヴェンの初期交響曲も取り上げていました。また、室内楽の授業でもベートーヴェン作品はしばしば演奏されていました。それらを弾くたびに、シューベルトは感嘆のため息を漏らし、自分もこのような作品を書いてみたいものだと思ったのでしょう、やがて、弦楽四重奏曲やピアノ連弾曲などを書き始めます。コンヴィクトは全寮制ですが、週末や長期休暇に家に帰ったときには、兄のイグナーツとフェルディナントがヴァイオリン、父親がチェロ、そして彼自身がヴィオラを担当して、自作弦楽四重奏曲をしばしば演奏しました。
『エグモント』序曲に感激して……
1813年、変声期を迎えたシューベルトはコンヴィクトを去って初等教員養成学校に入学し、翌年、父親の学校の補助教員となります。ですが、定職に縛られることの苦手な彼はまもなくこの仕事をやめ、友人の家を転々としながら、好きな音楽に打ち込む生活に入りました。
お金には恵まれなくても友人には恵まれていた彼には、「シューベルティアーデ」と呼ばれる彼の音楽をみんなで鑑賞する親しい人々の輪がありました。その中に、やがて名バリトン歌手ミヒャエル・フォーグルも加わり、彼の新作を次々と歌い広めてくれました。この時期に、ゲーテの詩に付曲した『糸を紡ぐグレートヒェン』『魔王』『憩いのない愛』『野ばら』、シューバルトの詩を歌詞とする『ます』などおびただしい数の歌曲が生まれています。彼の頭の中には楽想が泉のように湧き出してくるので、レストランのメニューやワイシャツのカフスにまで大急ぎで旋律を書き留めていた、といわれています。
あるとき、こんなこともありました。
その日、シューベルトは親しい友人ヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーの下宿に遊びに行き、2人でピアノに向かって、ベートーヴェンの『エグモント』序曲の連弾演奏を始めました。今もそうですが、オーケストラ曲はなかなか実演機会がありませんから、手軽にその響きを実現できるようにと、人気作品には連弾版の楽譜が出版されています。2人は曲のすばらしさに感嘆しながら弾き進みます。すると、シューベルトはだんだん感極まって、「待ってくれ!ひらめいた!」と、突然演奏を辞めてしまいます。そして、ありあわせの紙に五線を引くと、ヒュッテンブレンナーそっちのけで作曲に没頭し始めたのです。このとき出来上がったのが、『2台ピアノのための序曲』Ⅾ.675です。曲の主調はヘ長調ですが、冒頭は『エグモント』序曲の調、ヘ短調から開始されています。
『フランスの歌による8つの変奏曲』を献呈
1818年、彼は『フランスの歌による8つの変奏曲ホ短調』Ⅾ.624という連弾曲を書き、1822年にこれがカッピ・ウント・ディアベリ社から出版されることになったとき、敬愛するベートーヴェンへ献呈することにしました。
内気でシャイな彼は勇気を振り絞り、刷り上がった楽譜を手にベートーヴェン宅を訪問したのですが、あいにく憧れの人は不在で、留守番の弟子が受け取りました。もしも、じかに渡せていたなら、その場で何らかの感想、あるいは激励の言葉のひとつもかけてもらえたかも知れなかったのに、まったく惜しいことでした。
『七重奏曲』を規範として
その後もシューベルトのベートーヴェンへの尊崇の気持ちは強まるばかり。少しでもベートーヴェンに近づきたいと願っていたところ、1824年にそのチャンスが訪れます。ベートーヴェンの最大のパトロンで、ピアノと作曲の弟子でもあるルドルフ大公の侍従長トロイヤー伯爵が彼に、ベートーヴェンの『七重奏曲』に匹敵するような大規模な室内楽曲を書いて欲しい、と注文してくれたのです。おおいに発奮したシューベルトは、クラリネット、ホルン、ファゴット、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスというベートーヴェン作品の編成を規範として、これに第2ヴァイオリンを補強した『八重奏曲』を書き上げました。ベートーヴェンの『七重奏曲』と同じ6楽章制の超大作で、現在も『七重奏曲』と並んで広く愛好されています。
たいまつ持ちとして棺に付き従う
これほど、ベートーヴェンを仰ぎ見続けたシューベルトが、ついに尊敬する巨匠と会うことができたのは、ベートーヴェンが重い病の床に伏したと知って、友人に同行して見舞いに訪れた1827年3月19日頃のことでした。
ベートーヴェンの弟子のシントラーによれば、ベートーヴェンはその少し前に、シントラーが持ってきたシューベルトの歌曲に目を通していたので、このとき、その作曲者に温かな言葉をかけ、部屋にいた人々に、「シューベルトの中には神のようなひらめきがある」と言ったことになっています。しかし、何かにつけ、話を創作するシントラーの言だけに信憑性は薄く、おそらく、シューベルトは部屋の隅にたたずむのが精いっぱいで、一方のベートーヴェンも見舞客をしっかり認識できるほどの状態ではなく、2人の間に会話はなかったものと思われます。
ベートーヴェンはそれから数日後の3月26日に世を去り、29日に葬儀が執り行われました。その日、シューベルトは葬送の行列に付き添う36人のたいまつ持ちの1人を務め、教会からヴェーリング墓地まで棺を送りました。そしてそのあと、友人たちと悲しい酒を酌み交わしながら、みずからの運命を予知するかのような不吉な言葉を口にします。
「我々の中でこの次に逝く者のために乾杯!」
ベートーヴェンへのオマージュ、ハ短調ソナタ
翌1828年の春、ベートーヴェンの一周忌にあたる3月26日、友人たちの惜しみない協力のもと、世に出ることに無頓着だったシューベルトの初めての自作品公開演奏会が開かれました。これが弾みとなって作品も売れ始め、創作力の焔も激しく燃え盛って、9月中のわずか20日間には、大作ピアノ・ソナタを立て続けに3曲も書き上げました。第19番ハ短調D.958、第20番イ長調D.959、第21番変ロ長調D.960の最後の3つのソナタです。
このうち、第19番は3曲中もっとも、ベートーヴェンへのオマージュが強く表れたソナタで、第1楽章冒頭に示される決然とした第1主題には、ベートーヴェンの『創作主題による32の変奏曲』の開始部を彷彿とさせるハ短調主和音強奏と半音階上昇フレーズが用いられています。第2楽章は第1楽章のハ短調から変イ長調へ降りる長3度下の調が選択されていますが、これはベートーヴェンのお家芸で、『悲愴』ソナタとまったく同じです。温かく和みのある主題も『悲愴』ソナタと似通っています。
3つのソナタを書き上げてほっとしたのか、10月の末から、シューベルトの健康状態は急激に悪化していきました。
兄フェルディナントの家で病臥した彼は、それでも、11月17日に訪れた友人に、オペラによさそうな台本を知らないか、と尋ね、作曲への意欲をみせます。けれども、その翌日から意識の混濁が始まり、11月19日午後3時、31歳と10カ月の若さでベートーヴェンの待つ天国へと昇っていきました。死因は、公式記録では「神経熱」、家族の記録では「チフス」ですが、確かなことはわかりません。
遺体は、弟のベートーヴェン熱を痛いほど知る兄フェルディナントの強い主張により、ベートーヴェンの眠るヴェーリング墓地の楽聖の傍らに埋葬されました。そして60年後の1888年、2人の遺骨はウィーン中央墓地に改葬され、ここでも仲良く隣り合っています。

ウィーン中央墓地A32区画、メトロノーム型がベートーヴェンの墓碑(左)、人物レリーフのあるものがシューベルトの墓碑(右)。2つはモーツァルト記念碑(墓ではない)を挟んで両隣に位置している。
〜第9回 ベートーヴェンとワーグナーへ続く〜
第7回 ベートーヴェンとリスト
第6回 ベートーヴェンとロッシーニ
第5回 ベートーヴェンとウェーバー
第4回 ベートーヴェンとツェルニー
第3回 ベートーヴェンとハイドン
第2回 ベートーヴェンとモーツァルト
萩谷由喜子 Yukiko Hagiya
音楽評論家、ジャーナリスト。日舞、邦楽とピアノを学び、立教大学卒業後は音楽教室を主宰する傍ら音楽評論を志鳥栄八郎氏に師事。専門分野は女性音楽史、日本のクラシック音楽受容史。『音楽の友』『モーストリー・クラシック』等の批評欄を担当、日本経済新聞、産経新聞等に音楽記事を執筆。NHKラジオ深夜便に随時出演。クラシック音楽講座の講師も務める。主な著書に『幸田姉妹』『田中希代子』『諏訪根自子』『蝶々夫人と日露戦争』『クララ・シューマン』等。
ホームページ http://www7b.biglobe.ne.jp/~yukiko99/
ブログ http://yukiko3916.livedoor.blog/