2020 / 12 / 21
ベートーヴェンを取り巻く12人の音楽家たち 文・萩谷由喜子~第12回ベートーヴェンとマーラー
【ベートーヴェン生誕250周年 特別記念連載】

イラストレーション:aggiiiiiii
「ベートーヴェン賞」への応募
グスタフ・マーラーが「ベートーヴェン」を身近に意識したのは、ウィーン音楽院卒業の年1878年に、ウィーン楽友協会主催の作曲コンクール「ベートーヴェン賞」に自作オペラ『アルゴ船の人々』の序曲を応募したときではなかったでしょうか。
18歳のマーラーは、ギリシャ神話の英雄船の物語をもとに友人と共同で台本を書いたこのオペラの序曲を応募したのですが、賞を得ることはできず、オペラも未完のまま紛失されてしまいました。ご存知のように、マーラーには完成されたオペラはありません。もしもこのとき、序曲が「ベートーヴェン賞」を射止めていれば、それに勢いを得た彼がオペラ全体を完成させていたこともあり得たでしょう。
ともあれ、彼はその3年後の1881年に「ベートーヴェン賞」に再挑戦しました。今度の応募作品は前作よりも格段に規模の大きな、カンタータ『嘆きの歌(Das klagende Lied)』でしたから、彼の意気込みも前回とは比べ物になりませんでした。
カンタータ『嘆きの歌』はこんなお話
昔、男性嫌いの美しい女王が「森に咲く、赤い花をみつけてきてくれた者と結婚し彼を王とする」というお触れを出しました。そこで、ある兄弟が森に入って花を探すうち、弟が赤い花をみつけ、それを帽子に挿してひと眠りしていますと、兄がやってきて弟を殺害し赤い花を奪いました。しばらくして、森をさすらっていた吟遊詩人が白く輝く美しい骨をみつけます。詩人がその骨で笛をつくって吹くと、笛が悲しい物語を語るので、驚いた詩人は女王のお城に駆けつけます。お城では結婚式が行われようとしているところでした。詩人が笛を吹くと、笛は兄の悪事を語り始めます。慌てた兄が思わず笛をとり上げて唇に当てると、笛は「いとしい兄さん、僕はあなたに殺された。今あなたは、僕の骨でできた笛を吹いているんだよ」と歌い出したのです。女王は気を失い、客人たちは逃げ出し、城は兄の上に崩れてあたりは廃墟と化します。
グリム兄弟の童話『歌う骨』などをもとに書き上げたこの台本に沿って、マーラーは『森の伝説』『流離の楽師』『婚礼の音楽』の3部構成の気宇壮大なカンタータを作曲し「ベートーヴェン賞」に応募したのでした。
彼はのちにこの作品を改訂し、第1部をカットした短縮版にしてしまいましたが、近年は初稿の形でも復元上演、録音されています。それを聴くと、台本と音楽が不可分の一体をなしていて、彼が巧みなストーリー・テラーであること、音楽が独創的であることに驚かされます。そして、彼がこのあとに書く歌曲集『さすらう若人の歌』、及び、第1番から未完の第10番までの一連の交響曲を先触れする響きが随所にあふれていることにも気づかされます。まさにこの『嘆きの歌』こそ、オーケストラに声楽を取り合わせた巨大作品作曲家としての、マーラーの出発点でした。マーラー自身もこのカンタータをみずからの「作品第一番」に位置づけ、「わたしがわたしをマーラーと認めた最初の作品」と自負していました。
指揮者としてキャリアを開始
結果発表に先立つ同年9月3日、マーラーはスロヴァキアのライバッハ州立歌劇場の首席指揮者に就任し、11月24日にベートーヴェンの『エグモント序曲』を指揮して、地元の新聞に絶賛されます。
そして12月に「ベートーヴェン賞」の選考結果が発表されたのですが、審査員たちは『嘆きの歌』を選びませんでした。その審査員とは、すでに2曲の交響曲を成功させてシンフォニストとしてその名を轟かせていたヨハネス・ブラームスと、ブラームスこそベートーヴェンの後継者と声高に喧伝した音楽評論家のエドゥアルト・ハンスリック、ブラームスの第2交響曲を初演した指揮者ハンス・リヒターといったウィーン音楽界の重鎮たちでした。保守的な彼らの耳には、マーラーの音楽は大胆過ぎ、斬新過ぎたのでしょう。
マーラーの落胆は察して余りあります。でも、『嘆きの歌』を選ばなかったのはベートーヴェン本人ではありませんでしたから、彼は失意から立ち直ります。
マーラーはその後、オルミッツ市立劇場、カッセル王立歌劇場の指揮者を歴任したのち、1885年8月から翌年7月までプラハのドイツ劇場で次席指揮者を務め、このプラハ時代に、ベートーヴェンの交響曲第9番とオペラ『フィデリオ』を初めて指揮しました。今や「ベートーヴェン」は彼にとって、いかに解釈し、どのように演奏するかという、無尽蔵の学びの源泉でした。プラハの次はライプツィヒ歌劇場の指揮者となり、ベートーヴェン没後60年の1887年にはここでも『フィデリオ』を指揮しています。
その一方、自作交響曲第1番を1889年に、第2番を1895年に、前述の『さすらう若人の歌』を1896年に初演して作曲家としても声価を高めていきます。そして、ハンブルク州立歌劇場の指揮者在任中の1897年春、4月8日についに念願のウィーン国立歌劇場の指揮者就任が決まり、同月24日、ハンブルクでのお別れコンサートを指揮してウィーンへと去りました。そのお別れコンサートで指揮したのが、ベートーヴェンの交響曲第3番『英雄』と『フィデリオ』だったことからも、彼のベートーヴェンへの敬意が窺えます。
ベートーヴェン解釈に信念を貫く
こうして、ウィーン宮廷歌劇場の第一楽長に就任したマーラーは、5月11日、ワーグナーの『ローエングリン』を指揮して颯爽とウィーン・デビューを飾ります。10月には37歳の若さで芸術監督となってヨーロッパ楽壇の頂点に立ち、翌年9月から1901年4月までウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者も兼任しました。
ウィーン・フィルの定期公演では、ベートーヴェンの交響曲や序曲を演奏しただけではなく、弦楽四重奏曲ヘ短調作品95『セリオーソ』の自身による弦楽オーケストラ編曲版も披露しましたが、これは、ウィーンの聴衆から激しいブーイングを浴び、厳重な抗議を受けてしまいました。それでも懲りないマーラーは、『第九』の編曲にまで手を出して、楽員、聴衆、そしてジャーナリズムを敵に回します。マーラー版は、木管楽器が倍管、ホルン8本、ティンパニの奏者2名、弦楽器も16型という巨大編成でしたから、オリジナルの第九を愛するウィーンの聴衆が腰を抜かし、違和感を覚えたのも無理はありません。
しかし、どんなに批判を受けても、彼は自身の編曲を「ベートーヴェンの意思を歪めるものではなく、逆に余すところなく汲み取るもの」として毅然としていたということです。
『フィデリオ』第2幕に『レオノーレ序曲第3番』を挿入
もうひとつ、彼のベートーヴェン作品への独自のアプローチとして、1904年にオペラ『フィデリオ』を採り上げたとき、第2幕第2場への間奏曲扱いで『レオノーレ序曲第3番』を挿入したことが挙げられます。ベートーヴェン唯一のこのオペラは最終稿の完成までに9年もの歳月が費やされ、その過程で4曲もの序曲が生まれました。最終稿の初演以後、最終稿のための『フィデリオ』序曲が演奏されるのが通例となったので、第2版のために書かれた『レオノーレ序曲第3番』は宙に浮いてしまいます。それはあまりにも勿体ないと考えたのか、マーラーはこれを、第2幕の第1場の牢獄の場面のあと、正義の勝利が見えてきたところで演奏する、という方法を発案したのです。
これには賛否両論が巻き起こりましたが、のちにフルトヴェングラーはマーラーのこの卓抜なアイディアを支持しました。たしかに、演出によってはたいへん効果があがるので、現在ではこの方法による上演もしばしば見かけられます。最近では、2019年8月29日と9月1日にオーチャードホールで上演された、パーヴォ・ヤルヴィ指揮NHK交響楽団によるオペラ・コンチェルタンテ・シリーズ第2弾『フィデリオ』(コンサート形式)がそうでしたが、ぴたりと的確な居場所を得た『レオノーレ序曲第3番』は、ヤルヴィの名演と相まって、聴く者に鮮烈な印象を与えていました。
「第九のジンクス」
このように、ベートーヴェン誕生のちょうど90年後に生まれたマーラーともなると、もはや、ベートーヴェンは身近に仰ぎ見る敬愛対象というよりも、永遠不滅の偉大な先人、客観的な解釈対象であったことがわかります。ただ、彼が主観も抱いたとすれば、それは、彼が「第九のジンクス」を気に病んで、つまり、ベートーヴェンのように9番目の交響曲を書き上げたところで死を迎えることは絶対に御免こうむりたいと念じ、みずからの9番目の交響曲に敢えてナンバーを打たず、『大地の歌』と命名したことがそれにあたるでしょう。この緊急回避策によって、彼は次の交響曲を書き上げるまで存命できましたが、今度こそ、その新作交響曲を『第9番』と名づけざるを得ませんでした。そして、この『第9番』が完成された交響曲としては彼の最後のものとなりました。ベートーヴェンと同じように……。
連載を終えて
1月から毎月連載してまいりました『ベートーヴェンを取り巻く12人の音楽家たち』も、12人目の音楽家マーラーをもって最終回を迎えました。第1回から順に、J.S.バッハ、モーツァルト、ハイドン、ツェルニー、ウェーバー、ロッシーニ、リスト、シューベルト、ワーグナー、シューマン、ブラームス、マーラーを採り上げ、彼らとベートーヴェンとの関わり、彼らにとってベートーヴェンとはどのような存在だったのかを考察してまいりましたが、この偉大な音楽家は、先輩、同時代、次世代と、いかなる時代の音楽家とも何らかの繋がりがあり、特に次世代への影響力が多大であることにあらためて気づかされ、その存在の大きさに畏敬の念を新たにいたしました。
これほど、ベートーヴェンと真摯に向き合った年はこれまでにありませんでした。彼は56歳と3か月という現在からみれば短命で没していますため、生誕250年が終わっても、没後200年の記念年がもうすぐそこ、7年後にやってきます。その2027年が平和な良き年であることを心より祈念して、この連載を終わらせていただきます。
これまでお読みくださいまして、どうもありがとうございました。
2020年12月21日 萩谷由喜子
▲コラム内でご紹介したマーラーの『嘆きの歌』、ベートーヴェンの『レオノーレ序曲第3番』はこちらよりお聴きください。
第11回 ベートーヴェンとブラームス
第10回 ベートーヴェンとシューマン
第9回 ベートーヴェンとワーグナー
第8回 ベートーヴェンとシューベルト
第7回 ベートーヴェンとリスト
第6回 ベートーヴェンとロッシーニ
萩谷由喜子 Yukiko Hagiya
音楽評論家、ジャーナリスト。日舞、邦楽とピアノを学び、立教大学卒業後は音楽教室を主宰する傍ら音楽評論を志鳥栄八郎氏に師事。専門分野は女性音楽史、日本のクラシック音楽受容史。『音楽の友』『モーストリー・クラシック』等の批評欄を担当、日本経済新聞、産経新聞等に音楽記事を執筆。NHKラジオ深夜便に随時出演。クラシック音楽講座の講師も務める。主な著書に『幸田姉妹』『田中希代子』『諏訪根自子』『蝶々夫人と日露戦争』『クララ・シューマン』等。
ホームページ http://www7b.biglobe.ne.jp/~yukiko99/
ブログ http://yukiko3916.livedoor.blog/