2020 / 08 / 20
待望のオペラ再開!藤原歌劇団『カルメン』公演レポート

ⓒ公益財団法人日本オペラ振興会
オペラが戻ってきた!
5月下旬に緊急事態宣言が解除されたのち、感染防止対策を模索しながら少しずつ公演が再開されているクラシック音楽シーン。この日、オペラがようやく再開した。日本でおよそ5カ月ぶりの本格的なオペラ上演となった藤原歌劇団の『カルメン』。いまだ不安で困難な状況が続くなか、劇場に再びオペラの灯がともった。
取材・文:宮本明(音楽ライター)

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『カルメン』は、気温30度台半ばの猛暑がつづく8月15~17日の3日間、川崎・新百合ヶ丘のテアトロ・ジーリオ・ショウワで上演された。本来は4月に上演予定だったこの公演は、岩田達宗演出による2017年新制作のプロダクションの再演なのだが、今回、さまざまな感染対策を施すために、舞台はほぼ全面的に生まれ変わった。配役はダブル・キャストで、筆者の観た初日は、カルメン桜井万祐子、ドン・ホセ藤田卓也、エスカミーリョ井出壮志朗、ミカエラ伊藤晴ほかの出演。藤田と伊藤は2017年のプロダクション初演でも同役を歌っていた。指揮は鈴木恵里奈。
来場者はマスク着用。入口で検温と手指消毒をするのはもはや見慣れた風景だ。万が一のクラスター発生に備えて連絡先と席番号をカードに記入して提出する。座席はもちろん1席おきの市松模様。ステージ前の2列は使用していなかった。換気のために上演中も一部の扉は開放したままなので外光が漏れる。通例と違って1幕ごとに休憩を挟んだのも換気を徹底するためだろう。
しかしこの日の大注目ポイントは、客席ではなく舞台上の感染対策だった。
まず、歌手全員がフェイスシールドを装着して歌ったこと。間違いなくオペラ史上初めての「事件」だ。しかし結論から言ってしまうと、それによる大きなマイナスは感じられなかった。

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聴衆の誰もが懸念したのは声の聴こえ方だったろう。しかし思いのほか、というより、ほとんど違和感がない。もちろん歌手たちは普段より歌いにくいのかもしれないけれども、聴く側としては、変に声がこもって聴こえづらかったりすることはなかった。
見た目にも、ときおり角度によって照明が反射したりするものの、透明なプラスチック製のシールドはほとんどその存在を感じさせない。シールドはメガネ式で、テンプル(つる)の部分が白いタイプのものだったが、すべて透明の素材なら、もしかしたらさらに存在感が薄らぐのかもしれない。もっとも、演出の岩田はこれを逆手にとって、歌わない、助演の兵隊たちのシールドは、ミリタリーな迷彩風にペイントして、わざと目立つように設えていた。
フェイス・シールドの感染防止効果についてはさらに詳細な検証を待ちたいが、一定以上の効果が得られるのなら、声楽関連の活動再開のための大きな福音となるかもしれない。
もうひとつ、通常の上演と大きく違っていたのがオーケストラ・ピットを使わなかったこと。ピット内で「密」になることを回避するため、オーケストラはステージ上に配置された。
開演前の折江忠道総監督のプレトークによれば、上演実現に向けて最初に決めたのがピットの廃止だったという。オーケストラをステージに上げれば、演奏会形式上演との違いは曖昧にならざるを得ない。この前提条件は、演出の岩田達宗を大いに悩ませたに違いない。演技スペースは一気に狭くなる。舞台装置の配置にも大きな制限がかかる。なにより、本来は虚構であるはずの舞台空間に、現実のオーケストラがでんと座っているのだ。
ステージの中央にオーケストラが配置され、その前方が歌手(およびダンサー)の演技エリア。合唱はオーケストラ後方の壇上に「隔離」して配置された。それぞれのエリアが交錯することはないので、接触は最小限に抑えられる。

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いわゆる舞台装置はない。出演者たちがいくつかのパーティション(ついたて)を移動させ、それが壁や窓のような役割を果たして多様なシチュエーションを想像させる。歌手同士が向き合うときには、このパーティション越しに歌えば、飛沫防止にもなる。往年の名画『また逢う日まで』のガラス越しのキス・シーンをちょっと思い出した。パーティションは、直接の飛沫遮断のためだけでなく、演者同士の距離を保つ目印としても機能していそうだ。
この岩田演出、初演時は大きな赤い月が舞台を照らしていた。登場人物たちの運命を導く象徴。その月はつねに床面いっぱいにも映っているのだが、今回はその半分はオーケストラに覆われ、存在感がかなり後退していたのはやむを得ない。本来の演出意図は少なからず失われたのかもしれないが、見ているうちに視線は自然に歌手たちにフォーカスしていき、脳内にはセビリャのタバコ工場やリーリャス・パスティアの酒場、闘牛場の門扉が浮かび上がる。さまざまな制約のなか、それを言い訳にする必要など微塵もない熱演が繰り広げられ、久しぶりに味わう生のオペラに酔った。

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もちろん、感染リスクは本番だけの問題ではない。大勢の出演者やスタッフたちが、リハーサルや準備のために長期間にわたって集まり、「密」を作らざるを得なかったのが、従来のオペラ制作だ。藤原歌劇団の公式ブログには、稽古レポートが何本かアップされており、十分な距離を保っての音楽稽古など、制作陣の入念な備えもうかがわれる。
関係者たちが前例のない苦心を重ねて再開にこぎつけた日本のオペラ。激昂してカルメンを刺し殺した放心のホセが「愛する俺のカルメン!」と叫び、オーケストラの最後の一撃が鳴り止むと、集まった熱心な聴衆から、これみよがしのブラヴォーのない、濃厚な拍手が湧き起こった。再び輝き始めたオペラの灯を二度と消さないために、私たち聴衆も十分な注意を払いながら日々を過ごし、一日も早い感染の収束に尽くしたい。

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宮本明 Akira Miyamoto
東京生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。『レコード芸術』『音楽の友』『GRAND OPERA』など音楽雑誌の編集部勤務を経て、2004年からフリーランスの音楽ライター、編集者として活動。雑誌、インターネット媒体への寄稿、音楽書籍の編集、CD録音の監修・制作など、形態を問わず音楽関連の仕事を手がけている。