2020 / 09 / 09
東京二期会オペラ劇場『フィデリオ』〜壁をキーワードにした深作健太演出版がついに上演

東京二期会オペラ劇場『フィデリオ』ゲネプロより 土屋優子(左/レオノーレ)、福井敬(右/フロレスタン)
政府のイベント開催の制限緩和を受けて、6月中旬から徐々に活動を再開し始めたクラシック音楽界。しかし声楽の分野は、歌唱に伴う飛沫感染のリスクも指摘され、対応に慎重に配慮せざるを得ない状況が続いている。そんななか、いよいよ日本の二大オペラ・カンパニーが動き始めた。既報のとおり、8月には藤原歌劇団が『カルメン』(ビゼー)を上演。そして9月には東京二期会オペラ劇場が、2020/21シーズンの幕開けとしてベートーヴェン『フィデリオ』を上演し、オペラ復活ののろしを上げた(9月3~6日・新国立劇場オペラパレス)。いつものシーズン開幕にも増してわくわくするような期待を胸に、初日の舞台を観た。
取材・文:宮本明(音楽ライター)
劇場内でのマスク着用や検温、手指消毒、クラスター発生に備えた連絡先の記帳、1席おきの座席使用という「新しい観賞様式」には、もうかなり慣れた。8月の藤原の『カルメン』では、オーケストラをステージ上で演奏させてピット内の「密」を避け、歌手たちはフェイス・シールドを着用して飛沫感染を防止するという対策をとっていたが、この日はオーケストラは通常どおりピット内で演奏し、歌手たちもマスクなしで歌った。

マスクなしで歌う出演者たち(マルツェリーネ役の冨平安希子)
もちろん、対策をしていないということではない。オーケストラ・ピットは通常より浅く、客席側の仕切り壁を撤去して「密」を回避している。そして飛沫感染防止のために、舞台最前面には終始紗幕が下がっている。紗幕というのは、通常時のオペラ演出でもしばしば使われる、光を透過する薄いカーテンのこと。いわば舞台全体に巨大なマスクをつけたような状態だ。また、舞台の上に立つ人数を抑えるためだろう、合唱団はずっと舞台裏で歌う。だから第1幕のフィナーレで、囚人たちがひとときの解放を喜んで「おお、なんという楽しさ」と歌う有名な合唱曲でも、彼らが牢から出てくる姿はない。苦渋の、しかし現時点ではやむを得ない判断だろう。
そんな舞台上の感染防止策は、演出の自由を奪う足かせなのではと考えてしまうのだけれど、この日の演出家・深作健太は、もしかしたらそれをも創造の楽しみにしていたのかもしれない。たとえば舞台を覆う紗幕には、次々に現れるドキュメンタリー映像や、歴史を語るさまざまな言葉を映し出すスクリーンとしてフル活用されるのだ。ナイス・アイディア! オペラ全体の、はたしてどのプランが構想当初からのもので、どのアイディアが感染対策のために変更・追加されたものなのかはわからない。しかし、それらは非常に巧みに一体となっていて、いつか感染対策が不要となった時に、もう一度見ても、おそらく違和感を感じることはないはずだ。オペラの醍醐味十分の舞台。

紗幕に映し出された歴史を語るメッセージの数々
深作が仕掛けた演出は大きく2つのポイントで括ることができそうだ。
まずひとつ目は、物語を、第二次世界大戦以降の世界の対立と争いの歴史の上に配置したこと。深作自身、終戦75周年を振り返ることが、このプランの出発点だったと語っている。
キーワードは「壁」だ。政敵に捕らえられた夫を救う妻の救出劇である『フィデリオ』を、深作は、人間と「壁」との戦いの物語に敷衍した。ナチの強制収容所の壁。冷戦体制下のベルリンの壁。そしてトランプ政権によるメキシコ国境の壁やイスラエルによるパレスチナ自治区の分離壁。物語は、そうしたさまざまな「壁」によって自由を奪われた人々と、その解放の歴史の時間軸の上で進行する。
だから、敵たちはハーケンクロイツの腕章を巻き、ドン・ピツァロは東ドイツの政府高官の軍服をまとって登場する。しかし、いわゆる「読みかえ」とは少し様子が異なるように感じた。『フィデリオ』の物語自体は、それらと絶妙な距離感を保って自立しているのだ。オペラは、歴史を振り返ることで作られた道の上を進んでいく。

東ドイツの政府高官の軍服をまとったドン・ピツァロ役の大沼徹
もうひとつの仕掛けは、「Freiheit=自由」という「言葉」だ。
1989年、ベルリンの壁が崩壊した。その年のクリスマスにベルリンで、レナード・バーンスタインが『第九』を指揮する記念コンサートが開かれた。ベルリン分断の当事国だった、東西ドイツ両国、そしてベルリンを分割管理していた米・英・仏・ソ4か国。これら6か国の楽団メンバーによる特別編成オーケストラが奏でる、平和を象徴する演奏。その際バーンスタインは、第4楽章の歌詞の「Freude=歓喜」を「Freiheit=自由」に代えて歌わせたのだった。
当時まだ高校生だった深作少年は、この演奏に深く感動したと語っている。そして今回、そのバーンスタインのアイディアを、『フィデリオ』に取り入れた。劇中、「Freiheit」という文字が、何度も登場する。
面白かったのは、フィナーレ直前のレオノーレとフロレスタンの二重唱で、二人が、アナグラムのように文字を組み合わせて「FREIHEIT」という単語を完成させる場面。幕開けからずっと、舞台には「ARBEIT MACHT FREI?(働けば自由になれる)」という、ナチの強制収容所の標語を掲げたアーチが架かっている(末尾に「?」を加えたのは、自由になれなかったユダヤ人たちの運命を知る現代の視点からの皮肉だ)。そのアーチが第2幕では(東西冷戦の終結によって)朽ち果て、崩れているのだが、それをフロレスタンが一文字ずつ拾い集めて組み合わせていく。

フィナーレ直前のレオノーレとフロレスタンの二重唱シーン(フロレスタン役の福井敬)
そして二重唱の終わりで、レオノーレが「F」という最後の一文字をはめ込むと、「FREIHEIT」が完成する。まさに文字どおり、ここで二人が自由を勝ち取ったのだ。そういえば、フロレスタン(Florestan)もフィデリオ(Fidelio)もドン・フェルナンド(Don Fernando)も、みんな「F」だ。これはきっと偶然ではないのだろう。ベートーヴェン自身、『フィデリオ』に「自由」を描いた証しだ。

土屋優子(レオノーレ)
指揮は大植英次。入国制限で来日できなくなったダン・エッティンガーに代わってのピンチ・ヒッターだ。しかし知ってのとおり、大植はバーンスタインの愛弟子。ベルリンの壁の『第九』の時も、ずっとバーンスタインと行動をともにしていたのだ(プログラム冊子には、その時のエピソードを語ったインタビュー記事も掲載されていて興味深い)。となると、上述のような今回の演出意図を考えた時、最初から彼以上の適任者はいなかったのではないか。それが代役として実現するとは、すごい巡り合わせ。天の配剤とはこのことか。
オペラ冒頭、大植は『フィデリオ』最終稿の序曲ではなく、序曲『レオノーレ』第3番で開始した。最終稿とは異なり、オペラ本編の音楽素材を先取りして用いる伝統的な作法で書かれており、本編と有機的につながっている面白さがある。

左より、大沼徹(ドン・ピツァロ)、土屋優子(レオノーレ)、福井敬(フロレスタン)
初日のキャストは、レオノーレ(ソプラノ)に期待の新進の土屋優子、フロレスタン(テノール)に福井敬、ドン・ピツァロ(バリトン)に大沼徹という布陣。感染予防のために、歌手同士が互いに距離を保って、基本的には舞台前方で正面を向いて歌うので、いつも以上に声がクリアに聴こえてくる。とくにレオノーレの土屋の、声量豊かで伸びやかな歌いぶりは印象的だった。また、看守長ロッコ役(バス)の妻屋秀和が貫禄十分。じつはすべてを知っている超人的な大ボスのような風格さえ感じた。

妻屋秀和(看守長ロッコ)
大詰めのフィナーレ。これまでに登場した「壁」が次々に開いていくと、その奥に合唱団が初めて姿を現わす。「壁」だけではない。すべての舞台装置は取り払われ、ステージの奥と左右にある新国立劇場の多面舞台全部を使った、見通しのよい広々とした空間が広がっている。左右の袖に隠してあった舞台装置や、舞台奥の非常口の緑の誘導灯までもが見切れている。舞台と客席の境目は曖昧だ。今日ここまで見てきた「壁」の歴史、自由獲得の戦いは、もはや額縁の中だけで演じられている虚構ではなく、現在のわたしたち全員が共有している現実なのだ。やがて客席の照明が上がると、舞台と客席はいよいよ一体となる。合唱が高らかに、まるで「さあ一緒に歌おう!戦おう!」と誘うように、響く。
そしてついに、舞台前面を覆っていた最後の「壁」である紗幕も取り払われる。すると一気に、霧が晴れたように、視界がクリアに開けた。その明るい光のステージの向こうに、未来への希望があるのだろう。1955年、戦災から復興したウィーン国立歌劇場がカール・ベーム指揮の『フィデリオ』で再開した史実を、あらためて思い起こす。苦悩を突き抜けて歓喜へ。いや自由へ──ベートーヴェン的な不屈のメッセージを、たしかに受け取った気がした。

土屋優子(左/レオノーレ)、福井敬(右/フロレスタン)
帰り際、劇場出口へ向かう階段で、隣を歩いていた夫婦連れの老紳士が、「ああ、オペラ見たねえ……」とつぶやいて、安堵したようにため息を漏らした。「本当ね……」と奥さま。こんな幸せも、劇場に戻ってきた。
宮本明 Akira Miyamoto
東京生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。『レコード芸術』『音楽の友』『GRAND OPERA』など音楽雑誌の編集部勤務を経て、2004年からフリーランスの音楽ライター、編集者として活動。雑誌、インターネット媒体への寄稿、音楽書籍の編集、CD録音の監修・制作など、形態を問わず音楽関連の仕事を手がけている。